セレンゲティ・人と動物プロジェクト
2003年度活動報告(2003年6月−2004年5月) 

プロジェクト責任者: 岩井雪乃

1.2003年度奨学金支給実績

今年度は、4人に奨学金を給付しました。現在の奨学生の選考では、中学校以上の教育・研修の機会を獲得したものの、その費用の支払いが困難な家庭状況にある人を対象にしています。

表 2003年度奨学金支給実績
  奨学生氏名 性別 年齢 就学先 給付金額(US$) 円換算(1$=121円)
1 ニャマリワ・ジョン 16 イコマ中学校 100 12,100
2 エドワード・マチェゲ 22 自動車免許取得 250 30,250
3 マベンガ・ソスピーター 25 ダルエスサラーム大学 700 84,700
4 クレトス・ニャギタ 29 タリメ教員養成大学 300 36,300
  合計       1,350 163,350

2.奨学生の状況

 プロジェクト担当の岩井が2005年2月から3月の1ヶ月間現地に行って奨学生に会ってきました。みんなの状況を報告します。

(1)ニャマリワ・ジョン Nyamariwa John(女)16歳 イコマ中学校2年生

彼女は、8人兄弟の6番目です(姉5人、弟1人、妹1人)。母と兄弟たち、姉の子供3人の計12人で暮らしています。母は彼女が5歳の時に離婚しました。母は、農業のかたわら、トウモロコシの地酒を作って販売し、その収入で子供たちを育ててきました。生活は苦しく、お母さんは夕飯のおかずを買うお金がなくて心を痛める日がしばしばあります。上の姉二人が養豚業や事務員をして家計を助けているものの、未婚の母となって自分の子供を育てているので、実家にまわせる援助はごくわずかです。

ニャマリワは、弟妹や近所に住む甥姪、年少のいとこなどの面倒をよくみる気立てのよい子です。96年に初めて出会った時、彼女は8歳でした。面長な顔にくりくりとした目で、興味津々にはじめて見る日本人を見つめていました。その利発さは、生活のあらゆる面で垣間見ることができました。お母さんに言いつけられたことを正確にやりとげ、小さい子の世話もきちんとし、何をやっていいか悪いかというしつけまでしていました(子供の中には、さぼって遊びにいってしまったり、頼んだのと違うことをしてしまう子も多いです。なんせ10歳にもなっていない子供にいろいろな用事を頼むのですから)。算数の勉強をみてあげても、すぐに私の言わんとすることを理解して、すらすら解いていました。

彼女が小学2年生の時に私は言ったのです。「ニャマリワ、がんばって勉強して、中学校に入りな。そしたら、学費は私が出してあげるから。」そして、5年後、彼女は見事に中学校に合格しました(注)。なんとうれしかったことでしょう!!今は、となり村の中学校に通って、勉強に励んでいます。

注)タンザニアの小学校は7年制で、7年生の最後に全国共通試験を受ける。その成績が合格ラインに達した者だけが公立中学校に進学できる。全国平均で中学校に進学できるのは10人に1人。ニャマリワが通っていたロバンダ小学校では、7年生約30人の内、例年1〜3人が中学に進学する。

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穀物を脱穀するニャマリワ

(2)エドワード・マチェゲ Edward Machege(男)22歳 自動車整備士見習い・自動車免許教習中

エドワードは、不幸な家庭環境で10歳のときに孤児となり、それ以後独力で生きています。私が彼と出会ったのは、彼が14歳の時でした。バーの物置部屋の隅で寝泊りしながら、雑用を手伝って食事を食べさせてもらっていました。そして、バーに来る裕福な客(国立公園職員やサファリ・ドライバーなど)に頼み込んでおこづかいをもらっては、小学校の学費にして自力で学校に通っていました。

母は、彼が8歳の時に亡くなりました。父は間もなく他の女性を娶り、隣村へ移っていきました。エドワードは、はじめは、兄とともに父について行ったものの、義母から邪険にあつかわれ、もとの村に帰ってきました。親戚の家を転々としていた時期もありましたが、そこでも冷遇され満足な食事も与えられないので、寄り付かなくなりました。兄は、仕事を求めて40kmほど離れた町へ行ってしまいました。先述のバーのママが親切にしてくれたのは、ちょうどエドワードがひとりぼっちになった時でした。

バーの片隅での生活は20歳まで続きました。小学校は、お金が続かなくて休学した時期もありましたが、なんとか卒業しました。そして2002年、彼に転機が訪れました。国立公園に仕事に来ていた自動車整備士の男性が、エドワードをダルエスサラーム(タンザニアの首座都市、600km離れている)にある自分のガレージで働かせてくれるといったのです。現在は、自動車整備士の見習いとして、毎日親方から見よう見まねで技術を盗みながら修行しています。

エドワードの夢は、サファリ・ドライバーとなって再びセレンゲティに帰ることです。当プロジェクトでは、昨年、運転免許クラスEを取得する費用を給付しました。タンザニアの運転免許制度では、クラスEでは自家用車しか運転することができません。お客を乗せてドライバーとして仕事をするにはクラスCの免許が必要です。今後は、クラスC取得に向けて支援していきたいと思います。

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エドワード

(3)マベンガ・ソスピーター Mabenga Sospeter(男)25歳 ダルエスサラーム大学 地理・環境学科 1年生

マベンガは、非常に向学心が強く、努力家の青年です。私が出会ったとき、彼は中学一年生で、夏休みに帰省したところでした。彼の中学校は150km離れた州都ムソマにあるので、寮生活していたのです。覚えた英語で一生懸命話かけてきました。文法的な間違いが少なく、前置詞などの使いかたも適切で、こんな田舎で、よくここまで話せるように努力したものだと驚きました。そんな彼が大学まで進学するのは、それはそれは長く険しい道のりでした。

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学校の校庭でのマベンガ:左側、マラリアで体調が悪い

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学校の寮でのマベンガ:左から4人目

マベンガは6人兄弟の長男で、下に妹3人、弟2人がいます。彼の家は、村の中では比較的裕福でした。父は40頭ほどの牛を持ち、さらに、やり手の家畜トレーダーとして右に左に家畜をさばいて収入を得ていました。父は、マベンガが小学校を出たら、自分の仕事を手伝うことを望んでいました。利発なマベンガは、商売をやらせても成功することができたでしょう。しかし、当人が望んだのは進学でした。彼は7年生の卒業共通試験で十分な点を取れず、公立中学校には入れませんでした。あきらめなかったマベンガは、次の年もその次の年も7年生を繰り返し受験しましたが、いずれも公立中学に入る点を取れなかったのです。

彼の勉強熱心さは、当時、村の中で話題になりました。村の小学校の先生たちは、田舎に派遣されたためにやる気を失ってしまい、授業に来ないことがしばしばあります。そんな時は代わりにマベンガが教壇に立って、他の7年生たちを教えたのです。「先生よりわかりやすい!」と生徒から好評だったほどでした。こうした彼の努力を知る村人たちが彼の父を説得したため、父が私立の中学校に通う学費を出すことに同意してくれたのでした。

中学校(4年制)の卒業共通試験ではよい点を取ることができ、高校(2年制)は公立高校に通いました。しかし、この中高時代も平穏に過ぎたとはいえません。まず、中学4年の卒業試験を間近に控えた頃、村にいた母親が失踪してしまったのです。この時、一番下の妹はまだ3歳、その上の弟も5歳でした。母は、幼子も置き去りにしていなくなってしまいました。マベンガは学校の休みを利用して、母を捜しにダルエスサラームまで行きましたが、母は家に戻ってくることはありませんでした。やがて、父も以前から患っていた高血圧が悪化し、入退院を繰り返すようになり、トレーダーの仕事ができなくなってしまいました。マベンガは、幼い弟妹の世話、家畜の管理、父の看病と家を切り盛りしながら、悪化した経済状態に負けることなく勉強を続けたのです。

高校の卒業共通試験はクラス2という結果でした。クラス1は、政府から奨学金をもらって大学に進学することができますが、クラス2は奨学金が支給されません。学費は年間約1500USドルかかります。高校までの学費は、年間100−200ドル程度だったので、父の財産で支払うことができましたが、大学の費用となると桁違いの額が必要になり、一農民が工面するのは容易ではありません。かといって当プロジェクトから全額を支出することも不可能なので、どうしたものかと考えていたところ、マベンガの村で営業しているホテル・センゴ・サファリのオーナー(イギリス人)が彼の学費支援を承諾しました。今年度は、当プロジェクトとセンゴ・サファリで半額ずつを負担しました。

この村からタンザニアで唯一の総合大学、ダルエスサラーム大学への進学者が出たのは初めての快挙です!これまで、国立公園管理局は、学歴が低いことを理由に村人の雇用をなかなか受け入れませんでした。雇用しても、臨時雇いの建設労働者だけでした。マベンガは、将来、正規職員として採用されることが期待されます。

(4)クレトス・ニャギタ Cletus Nyagita(男)29歳 タリメ教員養成大学1年生

クレトスは、とても機転の利く青年で、年長者から子供まで、誰からも好かれています。私が彼に出会ったのは、父親とその再婚相手に冷たくされて、やむなく高校を中退して村に帰ってきたときのことでした。彼は、再び学校に通いたい一心で、干し魚を売る商売で必死に働いて学費を稼ごうとしていました。

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クレトス

クレトスは、4人兄弟の長男。下に弟2人、妹1人がいます。母は、小学校の先生で誠実な人柄のため、村人から慕われています。母の熱心な指導のもと、クレトスをはじめ、兄弟たちはみんな中学校と高校に進学しています。しかし、小学校教師の月給は、わずか3万シリング(約5000円)。これでは、日々の生活を維持するのが精一杯で、4人の子供の学費すべてを捻出することはできません。

母は、クレトスの中学の費用は出してくれましたが、下の弟も中学に通いだしたため、高校の費用は出せなくなりました。そこでクレトスは、幼い頃に別れたきりの父親の世話になって、高校に通うことになりました。ところが父親は、クレトスの面倒を見る気はまったくなかったのです。学費こそ払ってくれたものの、自宅から高校までのバス代やお昼代も与えませんでした。クレトスは、片道1時間半かけて学校まで歩き、空腹のまま授業を受けて、また徒歩で家まで帰りました。そして、家に帰っても継母は食事を作ってくれなかったので、みんなが寝静まってから台所をあさらなければなりませんでした。そんな生活を続けることはとてもできず、クレトスは半年で高校を中退して、故郷の村に戻ってきました。

干し魚の商売はたいして儲かりませんでしたが、クレトスは運良く国立公園のホテルに雇用されました。イギリス人マネージャーが、地元出身者ではめずらしく英語を流暢に話す彼に目をかけてくれたのです。一年半ほど働くと、ずいぶん貯金がたまったので、彼は再び高校に入りました。この時には、すでに結婚して一児の父になっていました。

高校の卒業共通試験では、教員養成大学(2年制)に入学できる点数を取ることができました。現在、当プロジェクトの奨学金を受けながら家族を残して単身就学し、教育実習やコンピューター実習などをこなしています。

3.今後の展望

現在は、資金面・人材面ともに限られているため、ピンポイント的な奨学金の給付活動をしています。2004年度は、前年度の奨学生4人に継続して給付していく予定です。将来的には、奨学金制度をより充実させ、長期的な視点でコミュニティとそれをとりまく環境を考えられる人材の裾野を広げていきたいと考えています。また、地域の人びとが、自らの環境の歴史的な変容と現状を客観的に認識する一助となるような、在来知識を生かした環境学習プログラムの実施も検討中です。

更新日: 2005-08-20 作成者: AFRIC Africa