アフリカ便り—ねだる

犬とにんげん−カメルーンの森の人と犬から考えたこと−(カメルーン)

服部 志帆

犬と人間の関係は長い。人間が狩猟採集生活を送っていた紀元前一万五千年頃、犬は家畜化されたと言われる。野生の狼として暮らしていた彼らが、人間に飼われることを選んでからすでに一万七千年あまり。元来、犬は住居の見張りや狩猟の補助のために家畜化されたと考えられているが、その後さまざまな仕事を担うようになった。羊や牛の群れを追ったり、人間や荷物をのせてソリをひいたり、体の不自由な人や災害にあった人を助けたり、麻薬をかぎわけたり、曲芸を披露したり、闘いやレースに参加したり、食用や実験の対象となったり.....例をあげればきりがない。さらに犬は、人間とプラクティカルに付き合うだけでなく、神や信仰など人間の心の世界とも深く関わってきた。現在、日本ではペットとして飼われるもっとも人気のある動物であり、疲れやすい現代人を日々慰めている。

私もこれまでに合計3匹の犬を飼ったことがある。彼らはすべて子犬の時に友人からもらいうけたのであるが、我が家に彼らがやってきたときは、弟たちと競って餌をやったり散歩に連れて行ったりしたものだ。小さくて頼りない様子が心配で、まっすぐにこちらをみて走ってくる様子がかわいくて、学校を休みたいと思うこともしばしばだった。学校が休みのときは当然のごとく、朝から晩まで一緒に遊び、宿題くらいはしなさいと母に怒られた。私と弟たちには怒るものの、母も子犬たちにはやさしく、彼らは家族の愛情を一身に受けて育った。

私と弟たちも大きくなり犬たちも年をとると、以前ほど頻繁に接触することはなくなったが、餌をやったり散歩に出かけたりして、ほとんど毎日のように関わってきた。学校やクラブが忙しいときは、こっちの都合など気にせず、餌や散歩など自分の要求を訴えてくる彼らを億劫に思うこともあったが、満足すれば寝転がって目を細めている様子に愛着を感じた。結局、彼らは一匹が事故で、一匹が病気で、残りの一匹が天寿をまっとうして死んだが、彼らの死後しばらくのあいだは、生きていたころのかわいかった様子を思い出してばかりだった。

このような飼い犬との関係をひきずりながら、カメルーンの熱帯雨林に暮らす狩猟採集民バカ・ピグミーのところへ住み込み調査を行うために出かけ、犬のうちひしがれた様子をみたときはたいへん驚いた。犬と人間の関係は、時代や文化が異なれば、当然違ってくるのがふつうである。頭では理解できるのであるが、犬=愛護の対象という生活感覚がしみついている私にとって、バカ・ピグミーと犬との関係は衝撃的なものであったのである。

バカ・ピグミーは狩猟につかうために犬を飼っている。働かざるもの食うべからずの世界で、ペットとしてかわいがるために飼われている犬などほとんどいない。しかし与えられる報酬はわずかで、犬たちはいつもお腹をすかしている。みな人間の家の周りを徘徊しながら、何かおこぼれはないかと探すのがルーティンワークである。犬はみなやせ細っており、あばら骨の浮き出た犬も少なくはない。むろん母犬もやせた体で子犬を育てなければならない。母犬は5〜8匹ほどの子犬を産むが、子犬たちは十分に栄養が取れないため、1,2匹生き残ればいいところである。ふだんバカ・ピグミーは、犬たちを積極的にケアすることはないが、子どもを産んだばかりの母犬に対しては特別である。自分たちの食べている食事の一部を持って行ってやったり母犬がいる廃屋の修理をしたり、育児をサポートする。

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生まれたばかりの子犬

生まれたばかりの子犬たちはしばらく母犬やバカ・ピグミーの庇護のもとですくすくと育つが、目が開きよちよち歩きするほどになると、数々の試練が待ち受けている。まずは、バカ・ピグミーの子どもたちによるいたずらである。後足で立たされてダンスを踊らされたり、前足を掴まれて振り回されたり、草むらに放り投げられたり。子犬たちはキャンキャン言いながら必死に逃げまどうが、体の大きさや素早さなど子どもたちには到底かなわない。子どもたちがあきて、次のおもちゃを見つけるまで、悲しげな鳴き声をせめてもの抵抗にしながら待つしかない。ときにうなり声をあげる強気な犬もいるが、反抗的な態度をとったものなら、棒でこっぴどく叩かれ、最終的には村中に響くほどの鳴き声をあげ尻尾を丸めるのがおちである。よろよろになってなんとか家に帰り、家の片隅で小さく丸くなって眠る。母犬はもはや面倒を見てくれず、大人たちからわずかな食事が与えられるだけである。

数カ月が過ぎさらに大きくなってくると、足りない食事をまかなうために、村中を徘徊するようになる。家の周りやゴミだめを歩き回りながら、常に地面に鼻をつけて食べ物を探す。動物が捕獲された時は、子どもたちが大人に命じられて動物を解体するのを少し離れたところでうかがいながら、バカ・ピグミーが食べない皮や内臓の一部が捨てられるのを待つ。根気よく待つものの、これらにありつけるとは限らない。弱肉強食の世界では、つよい成犬たちが奪い合って食べてしまうのである。闘いに参加するほどの力を持たない犬たちは、ささやかな肉片を手に入れることができたらよいほうである。

このころ、狩りの訓練が始まる。バカ・ピグミーの少年たちは、犬にニワトリや野ネズミ、トカゲなどを追いかけさせ、犬が自分たちの指示通りに動くようにする。また尻尾を短く切るのもこの時である。これは、ゴリラやチンパンジーに掴まれたりジャコウネコやヒョウに噛まれたりして、狩猟の邪魔にならないようにするためである。村や近くの森で下積みをしたのち、遠くの森でいざ本番である。私は狩猟に参加した経験が乏しく、犬の活躍ぶりを実際に見たことがないのだが、犬たちは見通しの悪い森のなかで獲物の存在をいちはやく飼い主に教えたり、森なかをすばやく駆け巡り獲物を追い立てるそうだ。優秀な犬は、飼い主が到着する前に、カモシカやカワイノシシにとどめをさし、獲物の前に座って飼い主を待っていることもあるという。しかし鈍くさい犬もいるそうだ。彼らは、うまく動物を追い込めず、飼い主がしとめる前に獲物を逃してしまうこともたびたび。こっぴどく怒られるのは言うまでもない。

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お兄ちゃんと一緒に狩猟の練習に行く少年たちと犬

  

このようにバカ・ピグミーの村で生を受けた犬たちは猟犬となり、森でその領分を発揮することになるのであるが、彼らが村で置かれている状況は大きく変わらない。人間たちから棒や石を投げつけられたり、踏みつけられたり蹴られたり。キャイーン、キャイーンとひきずるような鳴き声をあげながら逃げまどう。逃げ場を失って我が家にやってくることもたびたびである。食事についても、きびしい状況は変わらない。狩猟に貢献すれば、飼い主からご褒美に内臓や皮など与えられるが、いつも貢献できるとは限らないし、解体現場の残骸は、幼い頃よりは得やすくなるものの、いつも動物がとれるとは限らないのだ。当然のごとく、バカ・ピグミーたちは大きくなった犬たちに積極的に餌をやることはない。そんな彼らは、なかよく並ぶ家々やゴミ捨て場を情けない顔で回りながら、なんとか食べ物を手に入れようとこころみる。人間がしゃぶり尽くし投げ捨てた骨を奪いあって手に入れたり、バナナの皮をしがみパパイアの種をまるごと飲み込んだりして、満たされない胃袋をなんとか満たそうとするのだ。

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飼い主に絶対服従

 

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食べ残しを求めてやってくる犬

 

いつもお腹をすかしながら人間の仕打ちに耐え、人間の狩りを手伝いながらわずかな糧を得ては、その小さな命の火を燃やしている犬たちを見るにつけ、私はなんともやるせない気持ちになる。なんてあからさまできびしい上下関係をなんだろう。もし生まれ変わるとしたら、カメルーンの森の犬にだけは生まれ変わりたくない。どうして、一億七千年前に犬は人間と生きていくことを選んでしまったのだろうか。感情的に考えても仕方がないものの、気持ちの整理はなかなかつかなかった。しかしその一方で、バカ・ピグミーと犬の関係を理解したいという気持ちもあった。バカ・ピグミーにとって動物は狩猟する対象であり、日々の重要な糧である。動物に対して、センチメンタルな感情を持ってしまうと、生き物たちに体当たりで挑む日々の生活が成り立たなくなってしまう。森で生きていくうえで、犬とクールに付き合っていくのは、理にかなったことなのかもしれない。合理的に考えようとすることで、これまでに日本で培ってきた犬に対する愛護の思いをなんとかなだめようとしていた矢先のこと、バカ・ピグミーの別の顔をみる機会に恵まれた。

アベニョンという老女の家に行った時のことである。家に入ろうとすると、焚火の奥からウーといううなり声が聞こえた。見ると、大きな黒い老犬が横たわっていた。アベニョンに聞くと、この犬は年をとりすぎて働けなくなったので食べ物や水を与えているという。さらに、彼女は尊敬に満ちたまなざしでやさしく語った。「この犬は若いころすごくいい猟犬で、リャンコム(アベニョンの夫)を何度も狩りの成功へ導いたんだ。自分でカモシカやカワイノシシをとってきたこともあるし、ゴリラを追い込んだことだってあるんだよ」。アベニョンの様子から私は、バカ・ピグミーもまた犬に感謝や尊敬の念を持つことを知った。わずかな食料でよく働き自分たちに森の幸をもたらしてくれる犬に、そのお礼として働けなくなった後のケアをしているのだ。並はずれた嗅覚をもち森を俊足でかけぬける犬に、あこがれる気持ちも持ち合わせているのだ。

また、アコフィという女の家に行った時である。彼女は足が悪く引っ込み思案の性格も手伝って、外に出て人としゃべることはほとんどない。家でひとりどうしているのだろうと思い、彼女の家を訪ねてみたことがある。彼女は焚火の横に敷いたマットの上に横たわっており、私が行くと、上半身を起こそうとした。そのときに、彼女の足元からキャンと子犬の声がした。子犬はアコフィの足首に小さな首をのせて眠っていたのである。彼女にこの犬のことを尋ねたが、餌をやっているという以外、ほとんど何も語らなかった。天真爛漫な子犬の様子をみると、大切にされているのではないかと思われた。彼女にとって犬は、動物の肉をもたらす猟犬というよりは、いつもそばにいて孤独を和らげる友人のようなものなのかもしれない。

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病気のアコフィと寄り添う犬

 

バカ・ピグミーと犬の関係は、肉をもたらすという実益や動物への感情移入は無用という合理にだけから成り立っているわけではない。犬は、バカ・ピグミーにとって感謝や憧れ、愛情という感情をくすぐる存在でもあるようだ。一方犬にとってバカ・ピグミーはどのような存在なのだろうか。幼いころから、わずかな報酬で徹底的に服従を教え込み意のままに働かせる。まれに十分なお礼と愛情を与えてくれるが、いつもはひどい仕打ちをする怖いもの。さしずめそのような存在だろうか。癒しに特化した関係を犬と結んでいる現代の日本人にとって、カメルーンの森の犬たちは信じられないような過酷な一生を送っているように見えるだろう。カメルーンと日本、生活スタイルや文化からくる犬との関係の取り方はずいぶん違うように見えるが、異なることばかりでもなさそうだ。最後に述べたような、バカ・ピグミーが犬に対して見せる愛情や尊敬は、日本人たちにとっても共感できるものではないだろうか*。このような感情は、どうやら地域や文化をこえて共有されるようだ。時代のほうはどうだろう。バカ・ピグミーと同じく狩猟採集をなりわいとし犬を家畜化した一億七千年前の狩猟採集民も、日本人やバカ・ピグミーに共感してくれるだろうか。彼らもまた、狩りで犬が見せる勇敢でしなやかな動きに憧れ、いつも自分たちのそばにあるやわらかなかたまりに体も心も温かくしていたのではないろうか、私はそんな風に想像する。

*共通点は愛情だけでもないだろう。日本でも厳しく訓練される犬や、飼い主に捨てられた挙句ノラ犬となり保険所で最後を迎える犬たちもいる。飽きたら捨てられ殺される運命の犬たちが少なからずいる状況を考えると、日本人と犬の関係も、愛護だけでは語れない冷淡で残酷な部分があるのだ。

更新日: 2011-03-09, 作成者: AFRIC Africa