アフリカ便り― アフリカの未来世代

『世界のはて』に就職 (タンザニア)

溝内 克之

「配属先は、ムトワラ州」
その言葉を聞かされた瞬間、カリスタは泣き崩れたという。彼女は私が以前からお世話になっている家族の娘さんで教員養成校で学んでいた。卒業した彼女は、父親の故郷や家族がいる州への赴任を希望していたが、想像もしていなかったムトワラ州への赴任を言い渡された(注1)。私のもとには彼女の父親から「いい就職先を知らないかい」と相談の連絡が来ていた。近くに娘さんを置いておきたいという親心だったのだろう。

タンザニアにおいてムトワラへの赴任や転勤は、号泣するのに十分な理由になる。タンザニアの南東部に位置し、隣国モザンビークと接するムトワラは、多くのタンザニアの人々が「世界のはて」と表現する地域だ。日本の約2.5倍の国土を持つタンザニアの地方部では、道路、電気などのインフラが充分に整っていない。その中でもムトワラは特に生活環境が厳しい地域といわれていた。この数年で天然ガスの開発が進み、首座都市ダルエスサラームからの約500kmの道路が舗装化されるなど生活環境は改善したと言われているが、彼女がムトワラへの赴任を言い渡された10年前、ムトワラへは未舗装道路が続き、移動は困難を極めた。雨期には流通が滞るような陸の孤島であった。

カリスタは、ムトワラ着任日など気にせず、育った街の近くの学校に配置換えしてもらえるように、奔走していた。そんな時、私はムトワラの州教育局長と仕事をする機会を得た。

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雨季には道路が冠水する

「教師をなだめ、さとし、おだて。大変だ。それでも教師は来てくれない」
局長も教師の確保に苦労していた。2000年代半ばからタンザニア政府は、中等教育の拡大を目指し、予算を増額し、また地域住民にも負担をお願い(ときに強制)し、学校の新設を進めた。その結果、大幅に学校は増えた。しかし、教師はすぐに増えなかった。ムトワラのような「世界のはて」にある学校への赴任を拒否する教師は、非常に多かった。ムトワラ州では生徒数百名規模の学校に先生が2、3人という事例も少なくなかった。ムトワラ州では遠隔地に赴任する教師には、身の回りの物が揃うほどの現金や食料などを支給していたが、それでも教師は集まらなかった。

「実は知人の娘さんも・・・」とカリスタの件を伝えると、局長は、彼女の配属予定の学校をリストから探しだした。「あ、あー、この学校かあ。街から徒歩で2日だなあ・・・」。このままではまた教師に逃げられると確信した局長は、別の学校への変更を決めてくれた。「本当に教師が必要なんだ」。本人も教師だった局長の言葉は重かった。

ダルエスサラームに戻った私は、カリスタに電話してムトワラが思っていた以上に良い町だったこと、教育局長が心待ちにしていることを伝えた。そして数週間後、カリスタが私の家を訪ねてくれた。ついにムトワラへ行くことを覚悟したという。さらに数日後、彼女から電話がかかってきた。「街から数時間離れた学校。でも、買い物のために学校が車も出してくれるし、なんとかやっていけそう」と、声が弾んでいた。かなり手厚いもてなしをうけているようだ。

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ムトワラへと続く道

「シェメジ(配偶者の兄弟などへの呼び名)、妻をムトワラへ連れてきてくれてありがとう」
カリスタがムトワラへ旅立ってから5年後、ムトワラへ赴任していた私に(私は号泣しなかった)、ある県庁の職員が声をかけてくれた。なんと彼はあのカリスタの夫だという。以前に私と仕事で会った彼は、スワヒリ語を話す日本人と仕事をしたことを妻に伝えところ、「それは私のお兄ちゃんの一人だよ」と教えられたという。

カリスタは、インド洋に面したムトワラの街から200㎞ほど内陸にある田舎町から、さらに50㎞ほど離れた村にある学校で教師を続けてくれていた。彼女は、教育後進地でもあるムトワラの女子教育の拠点の一つである勤務校で、地域の将来を支える女性を育てていた。そして県庁で働くムトワラ出身の男性と出会い、結婚していた。そして私がムトワラで働き始めたとき、お腹のなかには新たな生命を宿していた。

さらに5年が経ち、最近はfacebookでお互いの近況を確認しあっている。プロフィール写真には彼女と大きくなった子供が写っている。カリスタが号泣するほど行きたくなかったムトワラは、今では家族と暮らす幸せな場所となっている。

(注1)タンザニアの教員養成校や警察学校では卒業後に赴任先が発表される。また州の教育局まで実際に赴任してみないと、どの学校に配属されるかもわからない。

更新日: 2017-2-20, 作成者: AFRIC Africa