アフリカ便り— アフリカの未来世代

若者だった僕ら(タンザニア)

溝内 克之

「どこの出身?」

タンザニア北部のなまりが強いスワヒリ語を話す若者たちに私が声をかけたのは、2004年の話。彼らは、私が調査地として考えていたキリマンジャロ山間部出身の兄弟たちで、長兄ダミアンが経営するバーで食事を提供する仕事をしていた。そのバーは大都市ダルエスサラームのとある交差点の脇にあった。

「この日本人、俺らの故郷で調査したいんだってよ」

同世代の彼らと打ち解けるのにはわずかな時間しかいらなかった。特に同い年のトゥパキ、ゴディとは特に仲良くなった。それから毎晩、そのバーで夕食を食べながら彼らとの会話を楽しんだ。彼らは自分の仕事を優先させ、なかなか構ってくれないこともあったが、翌日が休みの日は店を閉めてから、朝まで開いている別のバーやディスコで、時に彼らのゲットー(兄弟数人で同居していた長屋の一室。彼らはその長屋を「我々のゲットー」と呼んでいた)で、お互いの将来の夢や現在の悩みを語った。

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店の倉庫:都市へ出てきたばかりのころは店の倉庫で寝泊まりして、料理の仕込みをしていたという。

「いつか、自分の店を持って大きな商売をするんだ」

彼らは同じように語ってくれた。彼らは、ダミアンの店で働き200円ほどの日給をもらっていた。それに加え、儲けの一部が彼らの懐に入った。ダミアンが朝持ってくる材料を受けとり、定額の売り上げをダミアンに収めるのがルールだった。同じ材料をやりくりして、大きな儲けを出せば、彼らの懐が膨らむ。ダミアンによると「あの材料の量なら、十分に余分な儲けがでる。儲けを出せない弟たちはだめ。都会暮らしが合わないってことさ」

「いま、別の場所で料理しているよ」

何度目かのタンザニア滞在のころから、一人、また一人とダミアンの店を離れ、別の場所で商売を始めたことを聞かされることが増えるようになった。ときには商売がうまくいかなかったりしてダミアンの店に帰ってくることもあったが、次第にダミアンから「あいつらは頑張っているよ」と報告を受けることが多くなった。「俺は彼らに道を見せただけ。あとは本人しだいさ」ダミアンはいつもそのように私に話した。兄弟たちで共同生活していたあの「ゲットー」からも数人が出ていた。「彼女もできたし、一緒のところに住むわけにはいかないよ」トゥパキはダルエスサラームで知り合った同じ故郷の女性と同居を開始していた。

「おいカイシェ、トゥパキが結婚する」

いつの頃からか彼らの苗字カイシェで呼ばれるようになっていた私にトゥパキの結婚の報が入ったのは2010年。呼び出されていったバーでは、結婚式の準備のための寄付集めが行われていた。私も幾ばくかの寄付をし、結婚式でカメラマンをすることを約束した。故郷で行われた結婚式。パーティー会場となった生家の入り口で、トゥパキは父親から帽子をかぶせられた。ダミアンは「これであいつも大人だな」と呟いた。

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トゥパキの結婚式のために集まった兄弟たち。左から3人目がゴディ。

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お父さんに帽子をかぶせてもらうトゥパキ。

今でも彼らとの交流は続いている。ダミアンは軽い脳梗塞を患った時期もあったが、今では元気にダルエスサラームにあるとある大学で大規模な学生食堂を経営している。ダミアンによると何人かの兄弟は、村に帰ったという。「都会暮らしが合わなかったのさ」とダミアンが教えてくれた。彼らと出会ったバーの場所は、都市開発の都合で一度は更地になったが、いまではダミアンのすぐ下の弟マコボが開いたバーがある。その店の前の交差点には、今年完成した新都市交通のバス停ができており、ここ10数年のタンザニアの変化を感じさせる。

トゥパキ、ゴディそして私は今年39歳になる。トゥパキとゴディはダルエスサラーム郊外の住宅地でそれぞれが軽食店を開いている。私はタンザニアを離れ、ウガンダで仕事をしている。今年、トゥパキとは再会でき「お互い腹がでたな」と笑いあった。若者だった僕らは、いまそれぞれの道を歩んでいる。

更新日: 2016-09-09, 作成者: AFRIC Africa