コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。

2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。


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第12回:それぞれの1年後(山口亮太)

再び、ワンバへ

2018年8月、僕は1年ぶりにワンバの地を踏んだ。今回は、初めてキサンガニからバイクで移動するルートを採った。これで、僕も晴れてバイクではいる陸のルート、飛行機ではいる空のルート、そして、川から入る舟のルートの全てを制覇したことになる。バイクのルートについては松浦さんが書いているので詳述は避けるが(連載第1回)、キサンガニで購入した新品のバイクでも、荷台が折れてしまうような悪路であった(写真1)。ちなみに、折れた荷台は近くの町ですぐさま修理し、他の部分にも補強を行ったので折れる前よりも頑丈になった。どんなトラブルでもなんとかなるものである。僕は、とある(下半身の)理由から長距離のバイク移動に不安を抱えていたのだが、秘密兵器として持って行ったロードバイク用の分厚いパッドが入ったレーサーパンツのおかげで、拷問のような臀部の痛みなど諸々の心配から解放された。バイク旅が苦行であることは変わりないが、身体的な苦痛は少なければ少ないほど良い。もし、読者の中に、スーツケースと運転手に挟まれて身動きできない状態でバイク旅行を行う予定のある方がいらっしゃるならば、オススメである。

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写真1. 倒木への対処。森の道に倒木はつきものである。写真のように、倒木が比較的高いところに引っかかっている場合は、バイクを傾けて下を通る。高さによっては荷物をほどくこともある。

今回は、大ベテランの木村さんと経験豊かな運転手であるパパ・アデラールが一緒だったため、初めてのルートという心理的な不安もあまりなかった。道中で役人に絡まれ、嫌な思いをした以外には大したトラブルもなく、順調な旅だった。ワンバ基地には、京都大学の院生が二人滞在しており、温かく出迎えてくれた。木村さんは、到着早々、イヨンジ村のヤリサンガの様子を見にいき、所用でジョルまで出かけ、ワンバ村到着から3日後には、交易の調査のために南方のイロンゴ方面へと発っていった。もちろん、全てバイク移動である。イロンゴ方面では約1週間の調査予定だと言っていた。どれだけバイク旅が好きなんだ。木村さんのタフさにはかなわない。

ワイワイ号の帰還

ワイワイプロジェクトでは、松浦さんとタカムラ、僕の三人はバンダカまでしか同行することができなかった。その後、われらがワイワイ号は、そして、住民組織の面々はいかにしてワンバ村まで戻ったのだろうか。僕の2018年の調査の話をする前に、ワイワイ号が戻ったときの様子を、当時ワンバ基地に滞在していた徳山奈帆子さんに再び登場してもらって、記してもらうことにしよう。

ボート到着(著:徳山奈帆子)

松浦さん、山口さん、高村さんが意気揚々とバンダカへと出発した後、私はボノボ調査のために一人寂しくワンバ基地で過ごしていた。一週間後、一行が無事バンダカに着いたとの連絡があり、ほっとするとともに、みんな今頃楽しくビールでも飲んでいるのだろうなぁと羨ましく思っていた(実際には大変な旅路とバンダカでの滞在だったことは、この連載を読んで知った)。

「今日、バンダカを立ってキンシャサへ向かいます。ボートも今日出発、あと10-12日でワンバに着くと思います」 

松浦さんからこのような連絡をもらってから14日後の10月7日、ようやくボートはリンゴンジに到着した。帰りの旅は順調だったが、激しい雨が降った日があり船足が遅くなったとのこと。ボートには、学校支援のためのトタン板や病院支援のための薬品類など、村のための物品が目一杯に積まれているはずだ。噂はあっという間に村中に広がり、みんな気分が浮き立っているようだった。

次の日、ある程度は予想をしていたことが起こった。これまでの連載の中でも何度か述べられていたが、コンゴの人々は基本的に抜け目がない。松浦さんからは必要なお金はすべて払い済みと聞いていたが、村のメンバーたちは、私のところに「最後の交渉」にやってきたのだ。曰く、「リンゴンジに着いたところで燃料が尽きてしまった。ワンバに一番近いロクリの舟着き場までの燃料代が欲しい。そのせいで船員たちを余分に引き留めている分の食費を払ってほしい」という。ある程度は仕方がない。彼らの請求書を厳しくチェックしながら、妥当と思われる額の燃料費と食費を支払った。しかし、それで調子に乗ったのだろう、彼らは、「舟着き場から村に物品を運搬するから、その雇用費を払ってほしい」と言ってきた。しかも、1時間半で往復できる距離の荷運びに、日当以上の金額である5000フランを要求してきたのだ!そもそも、すでにプロジェクトとして大きな支援を得ており、そのうえ、村への支援物品なのだから、人件費は支払わない約束だった。さすがに腹が立ち、「ナコソロラ ナ ビヌ リスス テ!ケンデ!(話にもならない!出ていって!)」と言い放って基地から出ていってもらった。舟の旅と町での商売を通じて多くの知識と経験を得たのだろうが、必要以上に商魂がたくましくなっているような気がしなくもない。

外からは侃々諤々言い争う声が聞こえる。しばらくして戸口がノックされ、しょんぼりしたメンバーたちが入室の許可を求めてきた。「調子に乗りすぎた、ごめんなさい。お願いだからもう一度話を聞いてくれないか」とのこと。ここら辺も想定内なので、わかった、もう一度話し合おう、とこちらも歩み寄ることにする。彼らはいかに旅が大変だったかを切々と訴えたあと、「もう疲れちゃったんだ、、、」。こうなるとこちらにも同情心が沸いてきて、結局1回1500フランを20回分だけ(実際にはもっと往復が必要だったと思う)助けてあげることになった。医療品はそのままイヨンジの病院へ、住民組織の購入品はそれぞれの拠点に運ばれ、トタン板はワンバ基地に届くことになっていた。村の中学校の屋根を作るための支援品だが、貴重なトタン板をそのまま中学校に渡してしまうと、盗難や管理を巡っての揉め事が起こるかもしれないからだ。

午後になると、村の女の子たちがトタン板を持って続々と到着し始めた(写真2、3)。これは、「コンゴあるある」なのだが、重い荷物は女性が運ぶのが普通なのだ。100%根性の問題だと思うのだが、コンゴの男(この地域だけ?)は重いものが持てないらしい。50歳は過ぎているだろう女性が20Lの水タンク2つ+キャッサバが入った籠を一人で黙々と運ぶ横で、同じタンクを2つ括り付けた自転車を男が二人がかりで息を切らしながら押している、などという風景もよくみられる。

トタン板を持った女の子が一人到着するたびに、集まったやじ馬から歓声が上がった。ワンバ基地の雇用人たちは、枚数を数えながら、道中で濡れてしまった板を乾かすために一枚ずつ広げて壁に立てかけていった。「…203、204、205!!全部あったぞ!!」。医療品や他のアソシエーションの荷物なども、すべて過不足なく届いたとのことだった。ワイワイプロジェクト、これにて任務完了!というわけだ。

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写真2. 徳山撮影

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写真3 徳山撮影

この1年の様子

徳山さんも記しているように、われらがワイワイ号は色々と不測のトラブルはあったようだが、無事にワンバ村に到着した。では、そのあと1年の間にワンバ村とイヨンジ村の住民組織とそのメンバーたちは、どのような活動をしていたのだろうか。プロジェクトの「その後」を確認するのが、僕の仕事であった。今回も、住民組織を一つ一つ歩いて訪ね、代表にこの1年の活動を報告してもらい、今行っている活動の現場を見学させてもらった。

その結果、ワンバ村とイヨンジ村の住民組織は、この1年間で非常に好対照な推移をしていることが分かった。ワンバ村では個々の組織が活動を活性化させていたのに対し、イヨンジ村では再び村全体を統括するような大規模な住民組織が、それも二つも出現しつつあった。一方、どちらの村でも共通していたのは、舟を造りたいという声が盛んに聞かれたことであった。

ワンバ村では、一緒に船旅をしたフェリーが代表を務める組織が、プロジェクトで得た利益を元手に商売に力を入れ始めていた。村で蒸留酒を買い集め、それを商人の舟に乗せてバンダカまで販売しに行き、バンダカで購入したガソリンを村で販売する。最近になってイヨンジ村にできた自然保護区の保護官たちや、村人の間でも増えてきたバイク所有者を対象としたガソリンの販売は、良い儲けになるとのことであった。ガソリンを売って得た利益は、再び村で蒸留酒を買い集める資金となる。フェリーは、僕が到着する数日前にバンダカから戻ったところだったようで、それが今年に入って二度目の船旅だとのことであった。

プロジェクトでは燃料の管理を任されていたデュドネが代表を務める組織は、薬の販売に力を入れており、ついに小さな薬局を開店していた。バンダカではなくキサンガニまで自転車で薬を購入しに行っているとのことであった。実は、僕は今回、キサンガニからバイクで移動している道中で彼とすれ違っていた。大きな荷物を自転車の荷台にくくりつけた彼は、キサンガニでの薬の買い付けから戻る途中だったのだ。薬を販売して得た利益で、次の薬を購入する。すでに、何度かキサンガニまで薬を買いに行ったとのことであった。

他にも、プロジェクトでは住民組織のまとめ役として大活躍したアルフォンスが所属する教会関係者の住民組織では、プロジェクトで得た利益と信者からの寄付を合わせて教会建設を行っていた。もう一人のメンバーであるジャンが所属する組織では、例年通り共用の畑がひらかれており、トウモロコシとキャッサバを植えて、十分に収穫できたら蒸留酒を造る予定だとのことであった。

一方、イヨンジ村のメンバーたちも、それぞれに活動を継続していた。船旅では料理係であったフィデルや老師ことパパ・カミーユは、それぞれ細々とではあるものの、共用の畑をひらいて活動を継続していた(写真4)。いつもリュックを背負っていたブランシャールは、以前から行っていた薬の販売の規模を拡大して村で常設の薬局を開いていたほか、村から数キロ離れたところにある古いゴム・プランテーションの従業員宿舎跡地を整備し、トウモロコシを植えていた。蒸留酒を大量に生産するつもりだという。すでに、大きな土壁の家が建設中であったが、整備が進めば、将来は村からこちらに移り住む予定だそうだ。意外に思われるかもしれないが、何かとストレスをうけがちな村の喧噪を離れて静かなところで暮らしたいと考えている人も少なくないのだ。

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写真4. パパ・カミーユの陸稲畑。彼の組織では、早い時期から陸稲を植えている。

パパ・ガリは、自らの組織を県庁で登録し、公認を受けていた。これまでは彼の親族や隣人を中心とした組織だったが、これからはイヨンジ村全域からメンバーを募るつもりだという。イヨンジ村全体をカバーする大きな住民組織としては、すでにADIというものがあり、われわれも創立時から協力してきた。しかし、どうもこの1年間、彼らは統一した組織としては活動を行っておらず、4つある支部が個々に活動を行っているだけになっているようだ。そのため、パパ・ガリは、「ADIは死んだ」として、自分が住民組織の活動の旗振りをしようと思い立ったそうである。何より、ADIはこれまで公認を受けていなかった。これに対するADIのメンバーたちの主張は、なかなかハッキリしない。バンダカから船が戻って以降、組織の活動などに関する会合が一度も開かれなかったのは事実であるようだが、代表や主だった面々は「まだADIは死んでいない」と言い張る。一方、各支部のメンバーには、一年間も会合が開かれていないのだから、ADIは死んだと述べるものたちも少なくなかった。結局、僕がイヨンジの住民組織の主だった面々と会合を持った際には、ADIはまだ死んでいないということが確認されたが、それではパパ・ガリの組織とどういう関係を築くのか、という点は不明確なまま残った。

原因の一つは、パパ・ガリの新しい組織が公認をうけたのが、僕が到着するひと月ほど前のことであり、まだハッキリとしたメンバーシップも活動内容も定まっていないことである。また、行政から公認されるということが、どれほどの意味を持つのか、誰にも分からないということもある。さらに外部の要因として、イヨンジ村を対象とした大きな住民組織がもう一つ出現したことがあげられる。こちらはCLDYという名称で、メンバーにはイヨンジ村の10集落の長老たちが名を連ねていた。こちらも、僕が到着する直前に県庁で登録され、公認を受けており、実質的な活動はこれからであり、どこまで実行力を持ちうるのか未知数であった。イヨンジ村では、保全活動を進める国際NGOが主導した住民組織設立ブームによる小規模組織の乱立を経て、それらがADIという大きな団体へと収斂し、それぞれの組織が緩やかに協調しながら活動を行ってきたという経緯がある。今回の二つの公認組織の出現が、今後どう作用するのか、注意深く見守る必要がある。

住民組織が引き起こす問題

以上のように、プロジェクトを経たことで、ワンバ村とイヨンジ村の住民組織が様々な面で活発化していることは間違いなかった。商業活動によって、利益を上げる組織が出始めているのは大きな変化であった。これは、従来は国際NGOや日本人に頼りがちであった資金源を、住民組織が独自に持ち始めたということであり、今後の活動の発展のための重要な一歩である。

しかし、同時に住民組織の活動が問題を引き起こした例もみられた。ワンバ村で家畜飼育を主な活動としていた住民組織が、共用の畑をつくる際に、森の奥深くの一次林を切り開いてしまったのである。ワンバ村周辺の森林は、ルオー学術保護区という自然保護区になっており、一次林に畑をひらくことは禁止されている。にもかかわらず、この組織は数ヘクタールにも及ぶ広大な土地を伐開したのだ。一次林に畑がひらかれているという情報は、すぐさま日本人研究者とカウンターパートである現地研究機関に報告されたが、彼らが止めに入ったときには、時すでに遅しという状態であった。この件は、州政府にまで報告が上がる大問題となった。住民組織の代表には、厳重注意と罰金が課されたが、切ってしまった森は戻らないため、畑として利用することは許されたという。

こうした問題は、住民組織の活動が活発になれば、遅かれ早かれ出てくるものであった。彼らが現金を得る手段である農作物や蒸留酒は、全て共用の畑から得られるものであり、畑は森を切りひらいてつくらなければならない。つまり、住民組織が活性化すればするほど、村周辺の森の伐採が進んでしまうというジレンマが存在するのである。そして、このジレンマは、今回いたるところで援助を要求された、舟造りにも確実に潜んでいる。

舟造りへの渇望

今回の調査で非常に印象的だったのは、行く先々で舟を造るための援助を求められたことであった。コンゴでの調査は5回目であったが、このようなことは以前にはなかったことである。これは、ワイワイプロジェクトの影響に違いない!と早合点しそうになるが、それだけとも言い切れない。このところ、商人たちの活動も活発化してきており、バンダカとワンバ地域を往復する舟が年に何度も出るようになってきている。そういった商人たちは、ある程度資金が貯まると、住民たちに舟の製造を依頼する。バンダカのような町では滅多に見つけられないか、高額で手が出ないような大きな舟を、ワンバ地域では安価で購入できるためである。この他にも、村で布教活動を行う教会団体が、舟の製作を村人に依頼するというケースも散見される。つまり、この数年、ワンバ地域では外部の依頼から大型の舟を造る機会が多くなってきていたのである。ここに、ワイワイプロジェクトが行われたことで、住民たちは水上輸送の威力を目の当たりにした。そして、われわれが舟のレンタルに多額の費用を費やさなければならなかったことを知った住民組織のメンバーたちは、今度は自前の舟を所有することを渇望し始めたのである。

自前の舟を所有することは、彼らの抱える問題を一挙に解決する、唯一の希望となっていた。イヨンジ村で調査していた際に、ある住民組織のメンバーから聞いた言葉が印象的である。

「もし、バンダカとの間で舟が定期的に運航するようになれば、キサンガニを目指す人間は一人も居なくなるだろう。誰も、大変な苦労をして、身体を壊しながら森の道を歩きたいわけがないんだ。」

森を守りながら、住民の生活を改善する道を模索する

住民組織のメンバーたちが、舟と水上輸送に大きな期待を寄せていることは理解できる。現在彼らが行っている長距離徒歩交易はあまりに身体的に過酷であるし、背負うことができる量の商品しか輸送できないという点で、きわめて効率が悪い。舟と水上輸送は、その両方を一挙に解決することが可能な手段である。

しかし、舟造りにも上述の畑と同様、住民が拠って立つ基盤であるところの森林に負荷を与えてしまうという側面がある。言うまでもないことだが、舟を造るためには木が必要であり、作業スペースを確保するためには、舟の材料となる木だけでなく周辺の木々も倒す必要がある(写真5)。この作業は森の中で行われるが、舟の完成後には舟を最寄りの川まで引っ張っていく必要があり、そのためには、森を切り開いて通路を造るより他ない。大きな舟を造ろうとすると、森の奥深くの一次林に生えている巨木を倒す必要があり、必然的に作業スペースの確保、川までの通路の確保のために伐採される木々は多くなってしまう。

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写真5. 舟造りの現場。周辺の木々や下生えも丁寧に取り除かれていることがわかる。

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写真6. 舟造りの様子。大まかにあたりをつけて、斧などで材料となる木をくり抜いていく。大雑把なようだが、繊細な作業であり、舟造りの知識と技術を持った職人は少ない。この写真の現場でも、隣村から職人を招いていた。

このような理由から、舟の必要性には賛同するものの、各住民組織が個別に舟を製作するのでは森林に与える負の影響が大きすぎ、そうした事態は避ける必要があった。住民組織があげてくる舟作成援助の要求に個別に応じていては、資金がいくらあっても足りないのも明らかであった。このため、僕は今回の滞在期間中、ワンバ村とイヨンジ村のそれぞれで、住民組織のメンバーたちと何度も協議を重ね、それぞれの村で一艘ずつ、全ての住民組織が利用可能な共用の舟を造ることにした。こうすることで、森への負荷を最小限にしながら、住民の生活改善を支援することができるのではないかと考えたためである。それぞれの村で、住民組織から代表を選抜し、舟の政策委員会を立ち上げてもらい、製作場所と木の選定、製作指揮などを行ってもらうこととした。この仕組みがうまくいけば、将来的には外部からの舟の製作依頼に対しても、彼らが中心になって対応できるのではないかと期待している。これは、畑の問題でも同様である。住民組織が協力し合いながら、どこに畑をひらくかを協議するような仕組みができれば、われわれ研究者や現地協力機関、NGOなどと協力して住民の生活改善と森を守ることを両立させていけるのではないだろうか。

その実現のためには、われわれの側にも、継続的に彼らに関わり続けるという覚悟が求められる。果たして、われわれにそれだけの気持ちがあるだろうか?だが、覚悟はすでに十分ではないか。あれだけ苦労して、嫌な思いをしながらでも毎年コンゴを訪れているのだから。この国でのフィールドワークは惰性で続けられるほど甘くはない。僕たちもすでに、ワンバ地域の当事者となっているのだ。

われわれはこれからもコンゴへ向かう。ワイワイプロジェクトは、まだ始まったばかりである。

ご愛読いただきありがとうございました!

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