コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。

2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。


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第3回:境界を越える(高村伸吾)

コンゴとの出会い

誰かに世界で最も魅力的な場所はどこかと問われれば、すかさずコンゴ民主共和国と答えるだろう。誰に強いられた訳ではないけれどこの国を訪ねるようになって早9年、当初の鮮烈な印象はかげることなく、僕はこの国に足を運び続けている。素直な心境を言えば、これほどきつい場所になぜ心惹かれるのか自分でもよくわからなくなることがある。日本にとどまっていれば、生活に不満はないし、ハッとするような出来事に心を締め付けられることもないだろう。好き好んで危険な環境に身を投じる必要はないはずだ。にもかかわらず、僕はこりることなく日本から1万キロ以上離れたコンゴを目指す。

この国と縁を持つようになったのは、全くの偶然だった。今振り返ってみても、なぜコンゴを訪れるようになったのか不思議である。当時、アフリカは自分とは全く関わりのない異世界で、コンゴに関するニュースが流れても右から左へとすり抜けていったし、コンゴがアフリカのどこにあるのかすらわからなかった。かろうじて知っていたのは、戦争が絶えない世界最貧国の一つということくらいだ。転機が訪れたのは、2009年の6月だった。指導教員から、「シンゴさん、コンゴにいってみませんか」という提案を受けたのだ。僕は、どこか危険を避ける勘が働くのでそこを買われたのかもしれない。ひょっとしたら面白いものが見られるのではと考えた僕は、研究室が実施する8月のフィールドワークに同行することになった。

まともな外国経験もなかった自分にとって初めてのコンゴには面食らわされた。まず驚いたのは、首都キンシャサにあるンジリ国際空港の荒れ果てた姿だ。乗り継いだ南アフリカのヨハネスブルグとは比べるべくもなく、電気はおろか水道すらまともに機能していない。トイレに行って用をたすにも、水が流れず、手も洗えない。空港から出ると、まずムッとするような湿り気をおびた熱気や砂埃、汗と生ゴミを混ぜあわせたようなすえた臭いにあてられる。日銭を稼ごうとするポーターの群れをかき分けながら進むと、そこかしこを闊歩する軍人たちが目についた。たすき掛けされたロシア製のAK、アメリカ製のM4、イスラエル製のUZIサブマシンガンなど、さながら武器の見本市のようだ。映画でしか見たことのない光景が目の前に広がっていた。

二週間のフィールドワークを終えて浮かんできたのは、「もうこの国に来ることはあるまい」という感想だった。見たことのない世界をのぞけたのだから、もう十分だという思いが強かった。電気や水道が整っておらず、安全すらままならないこの土地をなぜ再訪する必要があるのか。夜間外出はもちろん、昼間の移動にすら緊張感が伴う街の実情にも嫌気がさしていた。しかし、そうした思いと裏腹に、その2年後の2011年5月、僕は再びコンゴに足を踏み入れることになる。研究室が実施する小学校建設プロジェクトがコンゴ政府の評価を受け、キンシャサのゴンベ地区にある国立教員大学(Institut Supérieur Pédagogique/ISP)から日本語の授業を行ってくれないかという要請を受けたためだ。折しも、第二言語習得論で修士課程をおえた自分にとって、実際の教育現場に携わることは大きな経験になる。多少の不安はあったけれど、現地で2年、日本語クラスの立ち上げと日本語教授に取り組むことになった。

キンシャサでの2年間を通じて、それまで培った自分のあり方は根本から変わった。そこにいるだけで今まで使ってこなかった“筋力”が鍛えられる。2011年12月の大統領選挙を境に状況は随分落ち着いたけれど、滞在していた当時は治安が安定しておらず、控えめにいっても街は殺気立っていた。数百メートル歩こうにもいちいち神経をすり減らす。路上をたむろする「シェゲ」と呼ばれるストリートギャングに取り囲まれたり、汚職警官にいわれない賄賂を要求されたり、油断していると何らかのアクシデントに巻き込まれた。いかにトラブルを避けるかをつねに考え、周囲100メートルを見渡しながら歩くことがいつのまにか僕の習慣になった。見知らぬ誰かにつけられていないか、街の雰囲気や人々の表情を丹念に観察する。きな臭い気配を事前に感じとれなければ、余計な面倒ごとに巻き込まれる。「神経過敏なのでは?」と自問するほど周囲の環境に意識を張り巡らす。しかしながら、そんな日常を重ねるうちに、今まで見えていなかった人々のこころの機微がおぼろげながら感じ取れるようになった。

コンゴの人々はアフリカの中でもとりわけ優しいー。印象に残っているコンゴ人学生の言葉だ。当初はこの言葉を素直に飲み込むことができなかったけれど、滞在日数を重ねるうち、人々のおりなす濃密な人間関係を目のあたりにし(平和を祈る参照のこと)、複雑に張り巡らされた互助のネットワークなど、コンゴの人々は僕らとはまったく違う世界に住んでいることに気がついた。彼らの視点では一体世界がどう見えているのか、強い関心を持つようになったのである。ちょうどそんな頃に出会ったのが、京都大学の木村大治先生(以下、いつも通りダイジさん)の『共在感覚』という一冊の書籍だった。『共在感覚』では、僕が現地生活で感じたコンゴの人々の世界観が巧みに描かれており、アフリカ社会の知られざる面白さや熱気を明らかにしたいという思いは強い欲求へと変わっていった。一冊の本との出会いを契機に、それまで考えていた進路から大きく舵を切り、コンゴで研究に取り組もうという決意が固まった。

初めてのフィールド−森の民ボンガンドの困窮

2013年7月、無事に京都大学に進学した僕は、ダイジさん、松浦さんと共にコンゴ赤道州(現在はチュアパ州)のワンバへと初めてのフィールドワークに赴いた。キンシャサからセスナに乗り、途中セメンドアにて燃料を補給し、ジョルという町を目指す。眼下には鬱蒼とした熱帯雨林と世界第二位の流域面積を誇るコンゴ河が広がっている。上空から眺めていると、人々の力がいかに小さいかを痛感させられる。人間の存在が希薄なのだ。1時間ほど注視してみても集落を見いだすのは難しく、人の生活する余地はほとんどないように感じられた。コンゴ盆地を旅した探検家ヘンリー・モートン・スタンレーはこの土地を「暗黒大陸」と呼んだけれど、彼の言葉通り、目の前には人間の介入を許さない大密林の姿があった。

空港というよりはひらけたサッカーグラウンドのような様子のジョル空港に降り立ち、調査地であるワンバ地域はバイクで4時間ほどの道行きになる。バイクにスーツケースをくくりつけ、ドライバーと荷物のわずかな隙間に自分の体をねじ込む。舗装された道路は皆無で、調査地への移動は身体的な負担が伴うものだった。雨によって陥没したでこぼこを避けながら坂道を登ったり、粗末な丸木橋を幾度も超えたりしながら調査地を目指さなければならない(写真1)。長時間のバイクの振動で足先からは血の気が引き、途中の休憩では足をさすってなんとか感覚を取り戻そうと努める。初めてのフィールド行で目にした風景は、キンシャサで馴染んだそれとの差はあまりにも大きかった。それでも、道中では、村の子どもたちが「Mbote (リンガラ語でこんにちはの意)」と手を振り、時にわんぱく坊主がバイクに追いつこうと駆け寄ってくる。ようやくコンゴの日常が自分に迫ってきているようで、胸が高鳴ったことを今でも覚えている。

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写真1. 丸木橋を渡す

高鳴る期待に反して、村入りと同時に僕は人々の洗礼にさらされてショックを受けることになる。キンシャサでの経験から予期していたとはいえ、調査地に住むボンガンドの人々の「圧力」は生易しいものではなかったのである。ボンガンドは父系夫方居住で、男性は生涯を通じて村にとどまることが多い。つまり、村の男たちは幼少期から壮年期に至るまで同じ村で暮らし、濃密な社会関係を形成する。そのことも関係してボンガンド社会は、ダイジさんの言葉を借りるならば、「個の突出を阻む嫉妬と足の引っ張り合いという論理が貫徹している」のである。とくに森林世界に隔絶された農村において、平準化の圧力は如何ともしがたいものがあった。調査地入りからの一週間、人々の度重なるベッギング(物乞い)が続く。朝起きて食事を取ろうとする瞬間に始まり、夕食後の暇をとるまでの間、無数の人々がダイジさんの居宅にひっきりなしに訪れ、心を落ち着ける瞬間が全くなかった(写真2)。日本から持ち込んだお土産を配ったり、コーヒーや砂糖をふるまうなど、息つく暇がないほど彼らへの応対に奔走させられる。

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写真2. 人々の来訪

ようやく人々の来訪が落ち着き、調査に乗り出そうとした矢先にも一悶着あった。村長が、「お金を配らないのであれば村から出て行け」などと迫るのである。さすがのダイジさんも憤懣やるかたない表情をみせ、設置したばかりのソーラーパネルをこれ見よがしに屋根からおろし、村から帰ろうという姿勢を示す。もちろん、本当にすごすごと帰るつもりはないのだが、お互いに対する交渉と圧力の掛け合いがこの社会を支配しており、僕らもその論理に従って相手に圧力をかけなければ物事が立ち行かない。こうした足の引っ張り合いは、日本人研究者と村の人々の間にのみ見られるものではない。村人同士でも金銭や物品の授受を巡る交渉が常態化しており、何らかの富を持った住民はすべからく平準化の圧力に晒される(村の中の商人の憂鬱参照のこと)。相互扶助のつながりがセーフティネットとして機能する一方で、森林世界に見られる足の引っ張り合いは社会を停滞させる要因となっているのではないかと感じた。

同時に、このことは、彼らの困窮がいかに深刻なのかを示している。紛争により橋や道路が寸断され、プランテーション会社が撤退したことで、農産物買付けのトラックの交通は途絶えた。村までトラックが来ていた紛争以前とは異なり、今日、村人は300キロ以上遠方の定期市への「長距離徒歩交易」を余儀なくされている。学費や医療費を捻出するため、男たちは30kgにもなる商品を担いで片道10日以上かけて森林地帯を突っ切るのである。こうした過酷な徒歩交易によって彼らは生活の糊口をしのいでいるが、流通崩壊に伴う極度の商品不足・現金不足から抜け出すことは難しい。

紛争から本当の意味で立ちなおるためには、いかに作るかではなく、いかに流通に乗せるかという視点が必要になる(写真3)。農作物が売れれば、地域経済は徐々に回復する。売れなければ、停滞が続く。一つの農村を見ているだけではこの状況を変えられない。農村から都市へ、そして都市から農村へ、ヒト・モノ・カネがどのように移動しているのか、流通の全体像を把握しなければならないと考えるようになった。しかし、紛争により1990年代から多くの調査研究が中断を強いられ、今日、コンゴ東部の流通を描いた先行研究はほとんど存在していない。ないなら、自分でやるしかない。そう考えた僕は、森林世界から河川世界へと調査領域の拡大を試みた。

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写真3. 森林地帯の商品輸送

市場を遍歴する河の民ロケレ

予備調査をおえ、半年の準備期間をへた2014年の夏、東部州(現在はチョポ州)で本格的な調査をはじめた。そこで垣間見たのは、河川交易に携わる商人たちの活力とその可能性だった。州都キサンガニから西方は、ロケレという民族が商品流通を一手に引き受けている。コンゴ河両岸に居住する彼らは、優れた河川航行の技術を持っており、丸木舟を操り市場を基点とした流通ネットワークを広げていた。ロケレはいくつかの市場を曜日毎に巡回することで生活を営んでおり、その多くは5つか6つの市場で商品を売買する。早朝6時から15時まで、彼らは露店で衣服や電気製品、雑貨などの工業製品を売る。その後、数百㎏にもなる商品を複数の梱に入れて次の市場へと輸送し、市場に設置された露店で夜を明かす。一週間の内、自分の村で休めるのは2日ほどだ。彼らは自分の村にとどまるのではなく、丸木舟で各地を移動しながら生活を成り立たせている。

櫂を操り、河川を自由に行き来するロケレの技術は卓越していた。機械による動力の助けもなく、身一つで定期市を結ぶロケレの逞しさには驚かされる。20時過ぎに起き出すと、翌朝までひたすら櫂を漕ぐ。鼻歌を口ずさみながら、櫂をかく水の音だけが耳元に響いてくる。そうした情景だけ切り取ってみれば、たやすい印象を受けるが、実際にやってみるとそうはいかない。30分ほど櫂を漕ぐだけでも全身から汗が噴き出し、両腕の筋肉は焼き付く。漕ぐのを放棄したいという思いがこみあげてくる。「自分は機械だ」などと何度も暗示をかけながらやっとの思いで漕ぐ僕を横目に、ロケレは何食わぬ顔で時に8時間以上もそれを続けた。月明かりを頼りに周囲の状況を見通し、商品を満載した10メートルほどの丸木舟を巧みに操る。川下への移動はいいとしても、川上への移動にはさらに途方もない労力がかかる。時速4kmで流れるコンゴ川を遡上するために彼らが用いるのは3メートルほどのポンドと呼ばれる棹だけだ。棹の先端にくくりつけられた金属製の鉤爪を水底にさし入れ、丸木舟を文字通り押し進める(写真4)。無限に続くかとも思える過酷な労働をへて、彼らは紛争後の社会状況を克服しようと試みていた。

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写真4.河の遡上

はじめの数週間は彼らの生活に慣れるのに精一杯だった。新しい市場を訪れる度に、村の首長に調査の目的を説明し、許可証に署名をもらう。突然あらわれた外国人に人々は困惑している様子で、市場を歩いていると「モンデレ (リンガラ語で「白人」の意) 、モンデレ」という声がそこかしこで聞こえる。「こんなところまで何しに来たんだ」と幾度も問われる。警戒と緊張が入り交じった空気だ。一人一人にじぶんの名前を告げ、何をしているかを伝える。できうる限り彼らとおなじ生活をするように努める。商人とともに河を丸木舟で遡上し、市場の食堂で昼食をとり、露店のなかで眠った(写真5)。ブルーシートで覆われた露店の中に寝転ぶと、日本の話をしてくれという声がかかってくる。尋ねられた質問には誠実に答えなければならないから、日付がまたぐまでブルーシート越しに商人たちとの会話が続く。そんな夜を重ねるうち、彼らとの生活にも少しずつなじみ、僕と彼らの境界もほどけていく。「シンゴ、また地図かいてるのか」「シンゴ、朝からなにも食べてないよ」見知らぬ「モンデレ」から「シンゴ」に昇格したときはなぜだかとても嬉しかった。

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写真5.市場で眠る

市場はその時々でめまぐるしく表情を変えていく。前日にはほとんど人の姿が見えない寂れた場所だったのが、市の日になると数千の人々と無数の商品で埋め尽くされる。早朝から数百艘の丸木舟が接岸し、キャッサバやとうもろこし、芋虫、獣肉、干し魚や鮮魚などの水産物が市場になだれ込む(写真6)。森林内部で得られる商品に加えて、森林地帯の農村ではあまり見ることのできない工業製品の流入もまた著しかった。トタン屋根やテレビ、DVDプレイヤー、携帯電話、ラジオ、大型のスピーカーアンプ、鍋やマシェット(山刀)、ボールペンやノートといった雑貨に至るまで、多種多様な工業製品が露店に溢れている。そうした生鮮食品や工業製品に惹かれて集まってきた人々で、市場の辻という辻が賑わう。商品の値切り交渉があちこちで飛び交い、売り子の嬌声や大音量のリンガラミュージックが鳴り響く。流通から遮断された森林地帯とは対照的に、河川沿いの市場では極めて活発な商業活動が行われていた。

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写真6.市場の様子

市場での調査を続けるうち、ロケレ商人の精神性とも言えるものが見えてくる。河の民の思考のあり方は、紛争後の社会を復興する際の一つの指針を示しているように思えた。特に際立っていたのは、彼らが長期的に物事を捉えているということだ。森林地帯の村人たちの意識が、どちらかといえば今という瞬間に絞られているのに対し、商人は中長期的な視点に基づいて行動計画を立てる。彼らはわずかな差益を積み重ねることによって自身の生業を成り立たせているから、日々の売り上げを明確に把握し、計画を適宜修正しなければならない。市場での販売を終えると、おもむろに帳簿を取り出し、売り上げを書き加える。現在残っている商品がどれくらいなのか、次にどんな商品を仕入れるべきなのかを一日一日の販売傾向から割り出し、計画を立案する。「一つの商品から得られる利益はわずかしかないんだ。あれだけきつい市場の仕事も計算ができなければ全て無駄になってしまう」。こうした語りに見られるように、商人たちは差益と売り上げの動向を注意深く見極めながら事業の拡大を目指す。遅々とした歩みなのかもしれないが、商人たちは幾月幾年と市場を繰り返し巡回することで利得を積み上げ、丸木舟やバイクなど自前の流通手段を導入したり、レンガやトタン屋根でできた常設店舗を建設するなど着実に商業活動を拡大していた。

ロケレ商人の態度は、頼るべき森を持たないという彼らの生活環境にも由来するものだろう。ロケレの土地は農耕民の圧迫を受け河川沿岸に限定されており、家族を養うべき土地を持たない彼らは、安定的な生活基盤を有していない。それゆえロケレは、自分自身の領域のみでは自活することができず、異なる世界への越境を宿命づけられている。いかに外部の人間と交わり、商品を流通させるかが鍵となる。そのためには異なる集団と友好的な関係を築き、相互の利益を考えながら交渉を行わなければならない。相手が何を求めているのか、一回きりの関係ではなくお互いに満足が得られる取引を行うことができなければ、商売は広がらない。こうした商いの技術を、ロケレは経験的に学んでいく。「ロケレは市場で育つ」という言葉が示すように、子どもたちは学校教育の合間に商売のイロハを叩き込まれる。市場での水の売り子に始まり、村周辺でのオレンジやバナナの仕入れやガソリン販売、親戚の商人のもとでの丁稚奉公など、ロケレの子どもたちは商売の手管を実践的に学ぶ(得られた利益の一部は、学用品の購入や授業料の支払いにあてられる)。

こうした技術や精神性をもってしても、実際に事業を拡大できるのは才覚と運に恵まれた一握りだけだ。河川という自然環境と直接向き合う彼らの仕事には、常に多大なリスクが伴う。「板子一枚下は地獄」ということわざは、現代のロケレ商人にもそのまま当てはまる。ロケレの仕事は、自分の全財産を背負って各地を移動するようなものだから、たった一度の水難事故で全てが水泡に帰すこともままある。数年をかけて積み上げた資金はもちろん、時に自分の命までもが危険にさらされる。実際、僕が把握しているだけでも、これまで6回ほど大規模な沈没事故が起こっており、そのたび数十から数百という単位で人命が失われていた。彼らは生活を成り立たせるために死というリスクも厭わず、果敢に商業ネットワークを広げている。生活を共にするうち、河川交易の凄まじさを実感するようになった。彼らは、自分の全存在を投機するという覚悟のもと、河という自然と対峙していた。

多くの犠牲を代償にしながらも、コンゴの河川世界は現在、大きな転換期を迎えつつある。紛争により従来の社会システムが崩壊するなか、河の民は持ちうる全ての技術と資源を用いて独力で社会の再建を試みている。森から河へとフィールドを越境することで僕が学んだのは、ロケレ商人のような考え方や技術をいかに森林内部へと波及させていくかということだった。本来、コンゴの熱帯雨林には世界にも類を見ない豊かな恵みが存在している。そのポテンシャルを発揮するためには、河の道を開くことが不可欠の条件であるように感じられた。今日のような過酷な徒歩交易ではなく、自然の幹線道路とも呼べる河の道を開くことができれば、村人が抱える苦境を克服する可能性も見えてくる。もちろん800キロ以上遠方の都市へと河の道を開くことがとんでもない挑戦であることはいうまでもない。だからと言って、自分の見知った世界にとどまっている限り、この国の悲惨な状況を変える次の一手は得られないだろう。「旅する者の目は開かれる。旅するからこそ知恵が生まれる」そんなロケレの言葉に励まされながら、2017年9月、果てしない森林世界を切り拓くため、ボンガンドの友人たちと共に僕らは河の旅へと乗り出すこととなった。

第4回は5月更新予定

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